2008年5月17日土曜日

長野の聖火リレーで逮捕されたタシィさん、釈放され会見

長野の聖火リレーで逮捕されたタシィさん、釈放され会見
産経新聞2008.5.17 00:43
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080517/chn0805170046000-n1.htm


長野の聖火リレーで逮捕されたタシィさん、釈放され会見
2008.5.17 00:43
釈放後始めて会見を行ったタシィ・ツゥリン氏。左は通訳を務めたペマ・ギャルポ氏=16日午後、東京・千代田区(小松洋撮影) 長野市で先月26日に行われた北京五輪聖火リレーで、卓球日本代表の福原愛選手の列の前に飛び出し、威力業務妨害の現行犯で長野県警に逮捕された亡命チベット人2世で台北市在住の古物商、タシィ・ツゥリンさん(42)が17日釈放され、都内で産経新聞などのインタビューに応じた。
 タシィさんは胸の前で両手を合わせながら、「日本のみなさん、政府、警察にご迷惑をかけたことにおわびします」と謝罪。
 その上で、「日本の法律を犯さざるをえなかった理由があったことを分かってほしい」と訴えた。
 通訳としてチベット出身の政治学者、ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学大学院教授が同席。
 タシィさんは謝罪の言葉を述べた後、「チベットで何が起きたのか伝えなければならなかった。平和的に抵抗したことを“暴力的行為”だと誤解しないでほしい」と強調した。
 さらに、「チベットで亡くなった人々のことを考えるとじっとしていられなかった。聖火リレーという全世界の注目が集まる絶好の機会で、チベットの惨状をどうしても訴えたかった。初めから飛び出そうと決めていたわけでなく、気が付いたら行動を起こしていた」と当日の様子を話した。
 20日間の勾留で、逮捕前と比べて頬がこけており、「最初はここまで長くなるとは思わなかったが、捜査当局は法律に沿って質問している印象を受けた。最後には平和的な活動をしていたと納得してくれたと思う」と話し、勾留中に多くの日本人から励ましの手紙をもらったことも明かした。
 福原選手の際に飛び出したことについては「どういう方か知らなかった」。後に、福原選手が中国の胡錦濤国家主席と卓球をしたことを知ったといい、「それはカルマ(業)かもしれない」と答えた。
 また、四川大地震について「生死をさまよっている人を助けることの方が五輪より重要だと思う。ただチベットに害を与えるのは中国政府であり、中国の人々には同じ人間として幸せになってほしい」と話した。

2008年5月15日木曜日

デモ再発を警戒、自治州の治安部隊なお駐留…四川大地震

デモ再発を警戒、自治州の治安部隊なお駐留…四川大地震 四川省大地震
(読売新聞 2008年5月15日02時18分)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080515-OYT1T00147.htm


デモ再発を警戒、自治州の治安部隊なお駐留…四川大地震 四川省大地震
 【アバ県(中国四川省)=加藤隆則】中国四川省で12日発生した大規模地震で、震源地にあたる同省アバチベット族・チャン族自治州には、10万人に及ぶ大量の軍が救援活動に投入されている。
 その一方で、3月にチベット人による反政府デモが起きた同州アバ県や紅原県では、救援部隊とは別の軍の治安部隊が依然駐留を続けている。チベット自治区ラサで起きた暴動から14日で2か月。当局は、地震によるチベット人社会の動揺が、デモ再発などにつながる事態にも神経をとがらせている。
 14日、震源地のブン川(せん)県から約300キロ北西のアバ県では、市街地の入り口に銃を構えた兵士や私服警官が複数立ち、不審車のチェックをしていた。土のうを積んだバリケードが三重に置かれ、警備の物々しさを物語る。
 公安当局者の一人は「地震では一人のけが人も出なかった」と強調しながらも、「まだ社会の不安要素は除かれておらず、反テロ工作を続ける必要がある。外国人の立ち入りは安全のため、認められない」と語った。
 同県では3月16日、治安部隊との衝突で、多数のチベット人が死傷。地元タクシー運転手は「まだ焼き打ちされた建物の残骸(ざんがい)が残っている」と話す。タクシーは外国人記者を乗せることを禁じられている。
 隣接する紅原県でも政府庁舎周辺を軍が警戒している。庁舎脇の空き地には軍用トラック5台が待機し、外に向けて「軍がいれば必ず勝利する」と大きなスローガンが掲げられていた。
 一方、両県周辺では、地震で補給が途絶えたため、ガソリンの供給がほぼストップし、スタンドで自家用車や小型トラックが立ち往生している。紅原県の政府庁舎には、ガソリンの特別配給券を求める住民がひっきりなしに訪れていた。
(2008年5月15日02時18分 読売新聞)

2008年5月3日土曜日

ダライ・ラマ14世の特使と中国政府、4日に広東省で会談

ダライ・ラマ14世の特使と中国政府、4日に広東省で会談
(2008年5月3日20時26分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080503-OYT1T00455.htm 

ダライ・ラマ14世の特使と中国政府、4日に広東省で会談
【ニューデリー=永田和男】チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の特使2人と中国政府の対話が4日、広東省深センで行われる。ダライ・ラマ側近が本紙に明らかにした。(センは土ヘンに「川」)
 側近によると、ロディ・ギャリ、ケルサング・ギャルツェン両特使は3日中に中国入りし、4日に中国側窓口の共産党統一戦線工作部代表と会談する。
 中国政府とダライ・ラマ側の接触は、3月に中国チベット自治区などで発生した大規模暴動以降では初めて。 チベット亡命政府は今回会談を「非公式な対話」と位置づけており、暴動鎮圧で死傷者多数が出たことにダライ・ラマの憂慮の念を伝えたうえで、沈静化の方策を協議するとしている。
(2008年5月3日20時26分 読売新聞)

無差別発砲に友人倒れた 騒乱ラサ、自由求め脱出

無差別発砲に友人倒れた 騒乱ラサ、自由求め脱出
朝日コム2008年05月03日22時49分(朝日新聞5月3日朝刊)http://www.asahi.com/international/update/0503/TKY200805020351.html


無差別発砲に友人倒れた 騒乱ラサ、自由求め脱出
2008年05月03日22時49分
 【ダラムサラ(インド北部)=武石英史郎】発砲に逃げまどい、血を流して力尽きた友人。命がけでくぐりぬけた検問。3月に起きた中国チベット自治区ラサでのデモに加わり、4月末にチベット亡命政府があるインド・ダラムサラへ逃れて来た最初のチベット人がいる。四川省の遊牧民出身、出稼ぎでラサにいた露天商クンサン・ソナムさん(38)。朝日新聞の取材に当時の様子を語った。
 (写真説明:ラサでの騒乱後、インドへ脱出したクンサン・ソナムさん=ダラムサラの難民センター、武石写す)

 3月10日にラサ郊外の寺院で起きたデモのうわさが広がっていた。14日午前10時ごろ、中心部で約30人がデモを始めていた。ソナムさんも加わり叫んだ。「自由を、権利を、独立を、ダライ・ラマ万歳」。誰かがイスラム教徒の肉店に石を投げた。チベット人が大切にするロバや馬の肉を売る店だったからだ。店主はナイフで抵抗、騒ぎが大きくなった。
 千人近くに膨れ上がっただろうか。治安当局の車をひっくり返して気勢を上げると、遠巻きにしていた警官隊が発砲を始めた。すぐ近くにいた友人が胸を撃たれて倒れた。布を巻いてやり、逃げようとしたが、2~3歩で動けなくなった。混乱の中で友人の消息は分からなくなった。「恐怖というより、怒りと憎しみでいっぱいだった」
 デモは場所を変えて続いた。漢族は逃げ、姿が見えなかった。午後3時ごろ、装甲車が3台来て催涙弾を発射。装甲車から兵士が自動小銃で無差別発砲を始めた。デモ隊は散り散りになった。幌(ほろ)付きの軍用トラックが倒れた人たちを荷台に載せて運び去った。火災による煙が充満する中、兵士の数がどんどん増え、怖くなり住まいへ戻った。午後9時ごろだった。
 ソナムさんは、建設作業員の同郷者6~7人と寺院近くの空き地でテント暮らしをしていた。15日以降、兵士が毎日やって来た。騒乱当時、何をしていたのか、逃げた者はいないか。ソナムさんは自分のことは黙っていた。
 露天商仲間が連行された。ソナムさんもデモに参加して投獄された経験がある。「捕まれば殺される。同じ死ぬなら逃げた方がましだ」。数日後、テントを抜け出した。行商に行こうと取得したパスポートとネパールの査証があった。ネパール国境行き乗り合いタクシーの座席が手に入ったのは3月26日だった。
 検問は10カ所近くあった。乗客はほかに漢族が3人。身分証を盗み見たら、2人はネパール国境へ配属される兵士。恐ろしくなった。ただ、これが検問官の警戒心を緩めたかもしれない。途中の街で食事をとったとき、「ネパールでも騒乱で大変らしい。気をつけなよ」。漢族の言葉に黙ってうなずいた。
 国境には翌朝到着。往来する商人に紛れ込んだが、真新しいパスポートが怪しまれた。尋問は2時間半。「暴動なんてあったんですか」。しらを切り通した。
 ダラムサラへ向かう途中、カトマンズの難民センターから初めて故郷の父に電話した。「脱出した。元気だ」。盗聴のおそれがあり、一言二言だけ。遊牧に出た妻子と話すことはできなかった。 命がけでつかんだ自由とは何か。ソナムさんは言う。「外出しても、何を叫んでも、殺されないこと」
 亡命政府によると、年間2千人を超えていたチベット難民は中国側の移動制限で激減。騒乱後はソナムさんと学齢期の児童3人だけという。(朝日新聞5月3日朝刊)

 「国境警備が厳しくなり、越境亡命者がまったくいなくなってしまった」「カトマンズの難民センターががらがら」……と聞いていた話のはほぼその通りのようです。この人も、たまたまパスポートとネパールビザを取得済みで、もともと予定していた出国だったからなんとか国境を越えられた幸運な方だったのでしょう。記事中も「脱出」とある通り、闇に紛れてヒマラヤを越えたケースではないですもんね。 ……ところでフルネームも写真もバッチリでてるんだけど、大丈夫!?

ダライ・ラマ特使、3日に訪中…暴動後初の接触

ダライ・ラマ特使、3日に訪中…暴動後初の接触
(2008年5月2日23時44分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080502-OYT1T00597.htm


ダライ・ラマ特使、3日に訪中…暴動後初の接触
 【ニューデリー=永田和男】チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の亡命政府は2日、ダライ・ラマの特使2人が3日に中国入りし、中国側代表と6日まで非公式協議を行うと発表した。 印PTI通信によると会談場所は北京。インド北部ダラムサラに本拠を置く亡命政府と中国政府の接触は、3月の中国チベット自治区などでの暴動発生後初めて。中国政府は4月25日、それまでの拒否の姿勢を一転してダライ・ラマ側との対話に応じると発表している。
 亡命政府によると、特使は2002年から07年まで6回の中国側との対話に出席したロディ・ギャリ氏ら。中国側も過去6回同様、中国共産党で宗教・少数民族対策などを扱う統一戦線工作部が応対するが、ダライ・ラマ側近は「7回目の対話とは考えていない」と述べ、今回の会談では当面の危機を巡る協議が中心になると強調した。2特使は、暴動鎮圧についてのダライ・ラマの「深い憂慮の念」を伝え、事態沈静化の方策を話し合うという。
(2008年5月2日23時44分 読売新聞)

まるで初めて対話が実現するかのような大騒ぎのテレビニュースもあったので、「初めてじゃないよ、90年代の対話がいったん途絶えた後02年から水面下でしょぼしょぼやってはいたんだよ」ということまで書いてある記事と合わせて引用しました。