2008年11月20日木曜日

チベット人組織代表者会議:亡命50年、強まる閉塞感 対話路線手詰まり

チベット人組織代表者会議:亡命50年、強まる閉塞感 対話路線手詰まり
毎日新聞 2008年11月20日 東京朝刊http://mainichi.jp/select/world/news/20081120ddm007030029000c.html


チベット人組織代表者会議:亡命50年、強まる閉塞感 対話路線手詰まり
 インド・ダラムサラで17日開幕した、亡命チベット人諸組織の代表者会議。中国・チベット自治区などの「高度な自治」を求めるダライ・ラマ14世に対し、「自治よりも独立」を望む強硬論もあるものの、中国側は一貫して自治要求にも応じない。1959年のチベット動乱でダライ・ラマがインドに亡命して来年で50年。中国との対話進展の見通しが立たないなか、亡命チベット人社会には閉塞(へいそく)感が強まっている。
 「中国との対話は失敗に終わった。これは中国の責任であり、我々はダライ・ラマの中道路線を再考する必要がある」。インド北部ダラムサラで亡命チベット人諸組織の代表者会議が始まった17日、開会を宣言した亡命議会のドルマ・ガリ副議長は、参加者にチベット語で語りかけた。
 会議に参加したのは、ダラムサラやデリーなどインド国内を拠点にしている亡命チベット人組織計15団体の幹部ら551人。会議で、チベット側から中国への強い不信感が示された背景には、中国の求めに応じて作成したとされる、チベット側の具体的要求を盛り込んだ「覚書」を、中国側に「一蹴(いっしゅう)された」ことがある。
 亡命政府によると、7月、中国とチベットの非公式対話で、中国共産党統一戦線工作部の杜青林部長らがチベット側のロディ・ギャリ特使に対し、チベット側の具体的な構想を知りたいと求めた。このため、ダライ・ラマの同意を得て覚書を作成し、10月末に中国側に提示。それなのに中国はこの内容を一切受け入れなかったという。
 「チベットの独立要求」を公言してきた「チベット青年会議」のシバン・リグジン議長は、「中国の本音がこれで分かった」と話す。急進的な青年会議は、「高度な自治」を求めるダライ・ラマら亡命政府上層部の「中道路線」と一線を画すが、若いチベット人の支持を得て無視できない存在となっている。
 ダライ・ラマが11月の来日で、「中国への信頼はなくなりつつある」と発言したのは、対話路線が進展しないなか、亡命社会に広がる指導部批判をかわす狙いもあった。代表者会議の開催は不満のはけ口の役割もある。
 ただダライ・ラマの秘書によると、17、18両日の各団体代表による演説で、「独立」を求めた団体はなかった。亡命政府閣僚のアカリャ・ヤシ氏は、「チベット社会は世代交代など大きな転換期を迎えている。チベットを知らない若い世代に、どうチベットの誇りと文化を引き継ぐか、それが真の懸案なのだ」と語った。【ニューデリー栗田慎一】

 ◇独立警戒、妥協余地なし--中国
 「世界のどの国がチベット独立を承認しているというのか」。中国外務省の秦剛副報道局長は18日の定例会見で、亡命チベット人諸組織がダラムサラで代表者会議を開催したことに、強く反発した。
 中国政府にとってチベットは、未統一の台湾や植民地だった香港、マカオとは根本的に異なる問題だ。中国側はダライ・ラマが求める「(自治区以外のチベット人居住地域を含めた)大チベットでの高度の自治」についても「事実上の独立要求」とみなし、拒否してきた。
 しかし、今年3月のチベット暴動をきっかけに国際社会の対中批判が高まり、中国政府は北京五輪を前にしてダライ・ラマの特使との非公式協議を再開した。ただ、暴動後3回目、五輪後初めてとなった今月上旬の協議でも大きな進展はみられず、協議は平行線をたどっている。
 さらに、中国側担当の杜青林部長は特使に対して、「チベットの独立、半独立、形を変えた独立は認めない。ダライ・ラマは政治的主張を抜本的に正さなければならない」と要求し、代表者会議を前にクギを刺した。
 17日付の中国紙「環球時報」は会議について、「(チベット側が)中央政府に圧力をかけて交渉カードを増やそうとたくらんでいる」と分析し、中国側の警戒感をにじませる。一方、チベット問題に詳しい北京の外交関係者は「チベット側が、五輪をきっかけに領土保全の問題で中国から妥協を引き出せると考えるのは甘いのではないか」と指摘している。【北京・浦松丈二】
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■亡命政府が公表した「覚書」要旨
・チベット人はチベット高原に居住し、行政区に関係なくひとつの民族である
・チベット人の自治政府は中国の憲法を順守し、分離・独立を目指さない
・ダライ・ラマはチベットにおいて政治的な事務所の開設を永久に放棄する
・チベットの治安維持にはチベット人の参画が求められる
・チベットの文化や言語、宗教や教育、知識などの継承と発展は、チベット人の手で担われ、保護されるべきだ
・アジアの巨大河川の源流であるチベットの環境破壊が深刻。チベットの伝統的な方法に基づく保護が必要
【ニューデリー支局】
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■ダライ・ラマ14世--08年中の主な発言
●「中国、インドの両大国の間にあるチベットはアジアの平和にも大きな意味を持つ」(11月4日、北九州市で講演)
●「武力を使うことに対して心から嫌気がさしている。中でも原爆は二度と使ってはならないという気持ちが(世界的に)高まっている」(同月3日、北九州市で記者会見)
●「(中国との対話路線について)前向きな変化をもたらしていないとの批判が、チベット人の間で強まっている」(同月3日、東京都内の日本外国特派員協会で会見)
●「チベット人は『死刑宣告』を受けたと同じ」「私は中国人民を信頼するが、中国政府への信頼はなくなりつつある」(同月2日、東京都内で記者会見)
●「中国の容赦ないチベット弾圧は、自分が支持しない独立要求をかえって鼓舞する結果になっている」(5月22日、英下院外交委員会で証言)
●「私には反中国というイメージが作られてきたが実際は違う。独立を求めているのではなく、自治がほしいだけ」「私は悪魔ですか? 私は人間です」(4月10日、成田空港近くで記者会見)
●「(暴動がさらに拡大するなら、チベット指導者の地位を)私は退位する」「反中感情をこれ以上強めてはならない。我々は中国と良い関係を築き、ともに生きていかねばならない」(3月18日、インド・ダラムサラで記者会見)
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■チベットをめぐる主な動き
 7世紀初め   チベットに統一王朝「吐蕃(とばん)」が成立
17世紀半ば   ダライ・ラマ5世が政教一致体制を確立
18世紀後半   清(中国)の影響下に入る
1913年 2月 ダライ・ラマ13世が独立を宣言(中国は認めず)
  40年 1月 ダライ・ラマ14世が即位
  49年10月 中華人民共和国が成立
  50年10月 中国の人民解放軍がチベット東部への進駐を開始
  51年 5月 チベットを中国の一部とする17条協定を締結
  59年 3月 チベット動乱。ダライ・ラマ14世がインドに亡命
  60年 4月 インド・ダラムサラにチベット亡命政府樹立
  65年 9月 チベット自治区成立
  66~76年 文化大革命。チベットでの寺院破壊などが激化
  88年 6月 ダライ・ラマ14世が独立から高度な自治に要求を変更
  89年 1月 チベット仏教第2の活仏パンチェン・ラマ10世が死去
      3月 ラサで暴動が発生し、戒厳令を施行
      6月 天安門事件で国際社会からの非難が高まる
     10月 ダライ・ラマ14世へのノーベル平和賞授与が決定
  95年 5月 パンチェン・ラマ11世の認定で中国と亡命政府が対立
2000年 1月 チベット仏教第3の活仏カルマパ17世がインドに出国
  02年 9月 ダライ・ラマ14世の特使と中国政府が対話を開始
  08年 3月 ラサなどで大規模暴動発生
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■ことば
 ◇ダラムサラ インド北部の都市。中国軍のチベット進駐により、インドに亡命したチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世が1960年に亡命政権を樹立した。当時、インドのネルー首相がこの街を用意したのは「閑静で平穏」な町であることが理由とされる。現在は6000人以上のチベット人が住み、亡命政府の各省庁のほか、大学、寺院、舞台芸術や医学の研究所などが置かれ、チベット文化の海外での拠点となっている。
毎日新聞 2008年11月20日 東京朝刊

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